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さらにその後の手続き - じゃじゃ

2024/04/24 (Wed) 19:17:55

いつになったら終わるのか、な感じのその後の手続き。

とりあえず、関係個所は全て電話または訪問し、ある程度は郵便が届き、記入&必要書類添付。

この記入&実印押印は子全てゆえ、関東にいる兄弟へも送付し書いてもらう、ことはNGだって。
但し書きに、皆が揃った状態で協議書を書かねばならん、とか。

こりゃ、四十九日帰省時しかないな。

また、年金事務所予約は5月30日。法務局予約は5月28日と、まだまだ終わらん。多分その時書き直しを命じられる悪寒もするし。

そして、親が高額で買った細長い土地。名寄帳での評価額があまりに低い。
いくら地価が下がったとはいえ、不動産に足元見られた悪寒が。

Re: さらにその後の手続き - 月子

2024/04/24 (Wed) 23:08:42

遅くなりました、お母様のご冥福をお祈りいたします。


名家の喪主は大変なんですね・・・。
私の実家は由緒正しい貧乏人なので、葬儀も相続も質素にあっさり済ませました。

兄弟で揉めることなく、相続を済ませることが出来ますように・・・。
また奥様や子供達の負担にならないように、じゃじゃさんには公正証書遺言書の作成をお勧めします。

Re: さらにその後の手続き - カポ

2024/04/25 (Thu) 19:08:12

手続き大変ですね。お疲れ様です。

私も4年前に一通り母の代理で対応しましたが相続関連が大変でした。

うちの場合は母、妹ともに名古屋市内でしたから協議書の捺印もスムーズに終わり原戸籍、各戸籍、印鑑証明も簡単に揃いました。まぁ法務局には受け取り含め3回訪問しましたが。

実は先週義母が逝去し手続き準備を喪主だった義妹に説明しました。

年金手続きの予約がやはり来月まで予約取れず郵送でのやり取りとしました。これは私が理解してるので問題なく完了するかと。

診断書は色々利用しますので最初に10部ほどコピーしました。

行政関連は名古屋市は現在区役所におくやみコーナーというのが予約制であり一通りそこで完了します。

私の時は市民課、福祉課等々廻りました。

1番問題なのが義母の貯玉カードの精算なのですができるのかな?ダメな気がしてます。

これについてはまたご報告しますね。

ではでは。

気になるぅ~! - 月子

2024/04/25 (Thu) 20:15:33

>義母の貯玉カードの精算

そうか・・・銀行などと違って家族が精算できるかどうかは微妙ですね。
カポさんの報告をお待ちしています。

Re: さらにその後の手続き - じゃじゃ

2024/04/25 (Thu) 22:57:47

>月子さん
恐れ入ります。
まあ、名家ではないですが、光熱費だけで月10万超えるような木造3階建てのバカデカイ家ではあります。12部屋全室冷暖房完備した父は築3年の時他界しました。

相続は、兄弟間で良好な関係を築いており無問題です。
遺言書というより、妻と子に詳細を伝えるためのしかるべき方法を取る予定です。

>カポさん
恐れ入ります。
そう、喪主経験者は、喪主新人へフォローする役目がありますね。
おくやみコーナーはこちらでもあり、先日行って手続きを済ませました。

義母の貯玉カードの清算はできない香りがプンプンしますが、物は言いようかも。「急に亡くなって、どうしても葬儀費用が(泣)」とか・・

たいがーさんオフ会の思い出2 - じゃじゃ

2024/04/23 (Tue) 15:41:06

下で書いた炎上系の輩は1度限り(常連Iさんの、凄い顔してるの声が思い出されます)の参加でしたが、毎回参加されてる常連の方もおられます。

中で恐らくピカイチの腕なのがW夫婦プロ。

歴も古く、2人で海を長時間。釘見は某有名大学出の夫。しかし、夜の9時回ってそろそろ、の声に対しまだまだ打つ、という粘りは妻。そしてついたあだ名が鬼引きジェンヌ(たいがーさん命名)、2人合わせてずっと大台。

確変中は増やさない、主義。それは、増やす事は造作ないが、チェックが入るから現状維持に留める、ということをもうずっと昔から。
軍団とのいざこざも多い。優良店だから軍団と重なること多いとか。

1度、当時のマイホへ行ったことあれ、不在だったのが残念でした。

恐らく今も2人でブイブイ言わせてることでしょう。

ラッキートリガーを大爆発させたのは - じゃじゃ

2024/04/22 (Mon) 19:16:23

ラッキートリガーを大爆発させたのは、やはりケンケン氏。

恒例、週明け実践結果報告によると・・・・甘デジにしてサクっと51連。

甘デジにして一撃特大ホームランかっとばした、そう。



やはり、爆裂王の名に不足なし!!!!!

その後の手続き - じゃじゃ

2024/04/19 (Fri) 00:17:03

喪主の仕事の19以降の手続きの段階。

関わってた金融機関、保険会社、に電話あるいは訪問。

年金センターへ電話。さらに共済年金へも電話。

大抵は、書類を送ります、パターン。つまり記入し、必要なものを添付し送り返す作業。口座は即凍結。

出生から死亡が分かる、あるいは親との繋がりが分かる戸籍謄本や印鑑証明が必要なことは分かってるから、とりあえず市役所行って手配するも、サクっと万越えとはバカ高い。

どこで嗅ぎつけたか仏具関係者の訪問も。

Re: その後の手続き - ケンケン

2024/04/21 (Sun) 07:20:12

商店2袋お菓子詰め放題1000円。普段お酒は飲まないですが、アイスは毎日食べる甘党なので、ありがたかったです。

Re: その後の手続き - じゃじゃ

2024/04/21 (Sun) 07:23:09

アイス詰め放題もあるカポね。

Re: その後の手続き - カポ

2024/04/22 (Mon) 11:44:40

呼ばれましたか?

お母さま、ご逝去お悔やみ申し上げます。

じゃじゃさんもお疲れ様でした。
手続きが大変だとは思いますがご無理なきように。

Re: その後の手続き - じゃじゃ

2024/04/22 (Mon) 19:11:44

>カポさん
恐れ入ります。
氏の書き込みがあると安心します。
何かと大変だとは思いますが、ご養生ください。

たいがーさんオフ会の思い出 - じゃじゃ

2024/04/21 (Sun) 23:05:27

メディア顔出しプロである、たいがー山本氏主催のオフ会は、コロナ禍前は毎年行われていて、私も長きに渡り参加させて頂いていました。

もうパチンコ打ってない、という人もたいがーさんを慕って参加される、ケースも多々ありました。

そこでいろんな方とお会いしてきた訳で、それはもう個性的な方々ばかり。

例えば、2チャンなどで〇ネ、とか顔真っ赤、とか炎上させたりどうしようもない書き込みをする輩が今も昔も一定数いるわけですが、そんな何考えてるのかわからん輩がオフ会に参加するケースは極めてマレ。

そんな輩が1度だけ、たいがーさんオフ会に参加したことがありました。

まあ、まず見た目の印象が強烈でした。

目が普通ではありませんでした。

ほぼ、誰とも会話しませんでした。

その輩を見たのはその日が最初で最後でした・・・

菩薩様に会ってきた - じゃじゃ

2024/04/20 (Sat) 19:16:32

私の母親の享年を告げると、「若いんやね」の菩薩様。

ケンケン氏が何年かぶりにこちらのエリア店へ菩薩様と共に来てるとのことで、ご挨拶がてら行ってみると・・


4パチの甘大海5でいきなり12連。途中隣席してお話がてら菩薩様のパチンコを拝見。にしても面白いように1245の真ん中に3が止まる。そして当たる。

「いい台やね」とは菩薩様の弁。

私は勝負することがないお店ゆえ、連を見届けて去ろうとするも、また1245で3。そして当たる。

そしてお店を後にし、先ほど結果報告。ケンケン氏、菩薩様とも快勝。特に菩薩様は2時まで打って+45000円とか。

相変わらず、海島で比類なき王である。

喪主の仕事 - じゃじゃ

2024/04/17 (Wed) 17:41:53

30年前父親が亡くなった時は喪主は母親。今回初めての経験でしたが、最初で最後なのかは?ですが、まあ最後であってほしいもの。

ということで、喪主の仕事として何をした、あるいはしているのか、箇条で書いてみます。

1、施設との連携で、入院が可能な病院へ送迎。入院期限があり、また別の病院へ送迎。その際、介護タクシーを手配。兄弟へ、面会のタイミングの伝達。ちなみに自宅での看取りは刑事事件性の調査が入るのでできれば避ける。

2、母の看取り。病院との連携で来てほしい、まだ大丈夫の繰り返しで何往復も。なんせ1番最初は1年前に、もうダメと言われた。延命に関する医師との話し合いも。そして死亡時間の決定、死亡診断書を受け取る。

3、事前に決めていた葬儀社へ連絡。葬儀社まで送迎してもらう。

4、葬儀社とお寺に連絡し、お通夜、告別式の日程を決める。

5、親戚へ連絡。町内会への回覧板などの記載タイミングを調整する。

6、葬儀社と、葬儀の規模、種々の道具類の柄などの決定、お返しなどの品、食事時の内容、数の決定、決めていた遺影用写真、スライド用の写真や自筆の似顔絵、お供えなどを提出、受付など各役割分担の決定、僧侶の送迎方法、霊柩車の走行ルート、タクシー、マイクロバスの手配、依頼を受けたお供えの手配、お年寄りの親戚への送迎確認、喪服やシャツ、数珠、靴、ネクタイ、靴下の確認。

7、市役所へ死亡届の手続き。斎場の使用予約、許可書取得など。

8、自宅に泊まってもらう親族への駅までの送迎、もてなし。

8、お通夜では、進行係と進行方法の打ち合わせ、受付係との打ち合わせ、僧侶との打ち合わせ。
僧侶から、決めていただいた戒名と、その由来を教えていただく。

9、最後に喪主の挨拶。

10、通夜振る舞い。

11、告別式、会場で進行係と打ち合わせ。受付との打ち合わせ。僧侶との打ち合わせでは、時十九日の日程の決定まで。

12、ご焼香などの後喪主挨拶。

13、位牌を持ち、霊柩車に乗り、斎場まで。

14、使用許可書2通出し、最後のお見送り。

15、葬儀場に戻り食事。お花など自家用車に詰め込む。

16、自家用車に乗り合わせ、斎場へ。

17、お骨上げ。後、お骨、位牌2つ、塔婆、お花2つを持ちお寺へ。

18、初七日の法要、送迎。までで、まずはひと段落。

19、自宅訪問者への対応、保険証など市役所関係の手続き。銀行、保険、年金関係、土地関係、税金関係先への連絡。送られてきた書類、記入し添付物添えて返却。

20、諸経費の支払い。出生から死亡までが分かる戸籍謄本、全印鑑証明など要求された諸々を手配。

21、遺産相続に関する話し合い(急ではなく、事前に調整しておく)。

健康年齢 - じゃじゃ

2024/04/16 (Tue) 20:20:09

寿命は平均的ながら、母は認知症を発症していました。
だいたい10年前くらいから同じことを繰り返し言うようになり、さっき観た映画の内容が全く言えなくなりました。

さらに、今の季節が分からなくなり、一歩外へ出ればもう家に帰れなくなりました。

アルツハイマーに加え、レビー型も発症しました。

徘徊対策もありサ高住にお世話になるも、入所初日に手に負えないから来て、と電話があり、一晩中付き合ったりもしました。

ようやく落ち着かせ(もう私以外ではどうしようもない時も)帰宅するも、直ぐにまた「来て」。つまり、いつ電話が来るか夜間であっても気が休まりませんでした。

そして安定させるため入院、退院を繰り返し、やがて穏やかに。

やはり、健康年齢が長いのが大事。

母は偉大 - じゃじゃ

2024/04/15 (Mon) 22:42:35

少しニュアンスを書きましたが、昨日は母の葬儀(享年86)でした。

喪主としての挨拶で母のエピソードを述べ、けっこう長目となりましたが、実はあれでもかなり簡略化。

折角ですので、こちらにも。

母は山あり海ありの自然が一杯の土地で生まれ育ちました。夏場は毎日目の前の海で泳いでました。学校へはけもの道を歩き、降雪時は船を使ったりも。本当は高校へ進学し先生になりたかったけど叶わず、中学卒業後は遠く京都の日本レーヨン(後のユニチカ)に就職しました。

同じころ、後に結婚する父は京都の大学を卒業し大阪で教員をすることが決まっていましたが、田舎の父から次男であったのにかかわらず、こちらで先生をしろと強要され、仕方なく田舎に戻って小学校の先生に。
その後3度目の転勤で田舎の小さな小学校に就く。そして6年生の修学旅行で京都へ。

その生徒の中に9歳離れた母の妹がいました。日本レーヨンに勤めていた母は就学旅行中の妹に会いに行きました。休日には友人と、自分で作ったワンピースを着こなして京都を闊歩していた長身の母。

私の小さい頃の母の印象は、マリリンモンローみたいな感じ。

そんな垢ぬけた格好の女性が目の前に現れ、「私は〇〇の姉です」と言ってきました。その妹がまた、今まで教えて来た生徒の中でも抜群に勉強ができた子でした。

もうあとの展開はご想像にお任せしますが、教員(父)は教え子の姉(つまり私の母)と結婚しました。

母も、当時、先生は様付けで呼ぶ存在であり、まさかそんな身分の人が田舎出の自分を選んでくれたことを喜びました。

義理の父母がやってたお店は昭和初期から創業の繁盛店。3人の子供に恵まれた頃はまだ離れて暮らしていましたが、年老いた父母と同居するため引っ越したのは私が小学4年生の時でした。

やがて祖父が、次いで祖母が亡くなり、1人で商店を継ぐことに。目の前にあるマンモス校の生徒がパンを買い求め、朝から戦争。朝7時から夜の11時までほぼ無休で開けていました。

〇〇校出身者で知らない人は居ない〇〇商店。そして〇〇のおばちゃん。

「ババア、〇ネ」とか言ってくる、学校にも行かずたむろしてる不良が再々やってきたり、酒の匂いプンプンさせたモンモンあるようなオヤジが怒鳴りながら家の中まで上がってきたり、ツケておいて2度と来ない輩もいろいろいたり、改造バイクが夜間も自販機で明るい家の前に止まり爆音上げまくったり、トイレなどで不在の時に釣銭盗む輩いたり、夜間盗みに入られたり、繁盛店ならではのトンデモケースも頻出。

それでも、誰に対しても笑顔で接した母。50年以上ずっと。
多分、母から笑顔を貰ったお客の数は市内随一。というか県1番の繁盛店と言われたことも。

パンのメーカー進々堂や専売公社から優秀店舗賞を貰い、タダで行ける旅行には漏れなく参加し日本全国旅しました。バドミントン、バレーボールも好きでした。

映画も好きで、3時間かけ京都まで、映画3つ観て来る、よく言ってました。洋裁、読書も好きでした。
気が強く、いろんな勧誘に対しては断固断ってました。

時は経ち、自力では食べれなくなり、点滴も身体が受け付けなくなり、老衰のため亡くなった日は病室でずっと付き合ってました。

やはり、母は偉大でした。

疎遠は続く - じゃじゃ

2024/04/14 (Sun) 22:11:52

相変わらずパチしてないです。それどころではない、とも言う。


で、本日つつがなく法要を終えることができました。


喪主は大変だな。


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